未来の孫育に役立てようと、七五三の由来について色々調べてみました。
(記憶より記録です!!)
七五三の色々を調べた記事はこちらから↓↓↓
【七五三】いつ?いつから?いつまでに?男の子と女の子の年齢は?お参りは?写真のみでも大丈夫?!吉日じゃなくても大丈夫?!
目次
はじめに
七五三は最初、七五三とは呼ばれていませんでした。
七五三は最初、11月15日ではありませんでした。
なので、両方を調べました。
七五三の素となる儀式
七五三の素となる3つの儀式が平安時代から行われていました。
また、この時代の子供達は、大きく成長するまでがとても難しい環境だったようで、子供達は、7歳の誕生日を迎えるまでは「神の子」や「神のうち」とされ、魂が定まらない、人間としての存在はなく、当時の戸籍にも記載はされなかったようです。
7歳を節目のとし、氏神様にお参りをして、無事に「氏子」になれた奉告と共に、健康と成長を祈願したのだそうです。
その通過儀礼が3~7歳の間で行われていた儀式です。
髪置きの儀(かみおきのぎ)
平安時代からありました。
産まれて7日目に初心毛を剃り、3歳までは男女共に坊主で育てられていたそうです。
3歳になった時に髪を伸ばし始め、幼児になったお祝いの儀として、「髪置きの儀」が行われていたそうです。
着袴の儀(ちゃっこのぎ)
平安時代からありました。
5~7歳で初めて袴を身に着けるようになったそうです。
この時はまだ、通過儀礼として男女共に儀式は行われていたそうですが、江戸末期には5歳を迎える男の子だけの儀式になっていったそうです。
帯解きの儀(おびときのぎ)
鎌倉時代からありました。
紐から帯に変わる儀式で、室町時代までは9歳ごろまで男女共に行っていたようですが、江戸末期からは7歳を迎える女の子だけの儀式になっていったようです。
七五三と呼ばれるようになったのは
平安時代から公家の間で行われていたと言われる3つの儀式(上記)ですが、江戸時代になり武家などに広まり、明治時代になって、この3つの儀式を七五三と呼ばれるようになったそうです。
そこから庶民にも広く伝わり、現在のように行われるようになったそうですが、この時点では「七五三」とは呼ばれていませんでした。
今の様に「七五三」として賑わっていったのは、大正時代に入ってからなのだそうです。
きっかけは、明治11年の「朝野新聞」にて「大晦日に七五三祝いを」と掲載されたことがきっかけだとありました。
この事によりお正月に七五三祝いを執り行う家族が増えていったそうです。
ですが、この時はまだ、11月15日が「七五三」ではなかったのです。
11月15日になった理由
七五三が11月15日になったのは諸説ありましたが、一番多くあげられていたものは、
徳川5代目将軍の徳川家光の長男:徳松(後の徳川綱吉)が関係しているそうです。
身体の弱かった徳松の5歳の儀式(着袴の儀:ちゃっこのぎ)を執り行い、健康と無事を祈願した日が、天和元年(1861年)の11月15日なのだそうです。
この日にあやかろうと、庶民たちも同じ日に執り行うようになったことから定着したのではないかともいわれているそうです。
また、地方によってはお祝いする年齢が違ってたり、元は陰陽説の思想から奇数がめでたい数字とされていて、それに基づき七五三が定着したともありました。
更に、庶民に広まったきっかけも、呉服問屋がこの時期に子供向けのものを「七五三商品」として売り出したことから、盛んに七五三が行われるようになったともありました。
ちなみに、七五三となる前は「祝児詣:いわいごもう」とよばれていたそうで、江戸時代は親が近所にお祝いのお返しを配って歩くものだったそうです。
千歳飴の由来
元禄・宝永の頃に江戸浅草にて七兵衛という飴売りが、長い袋に長い飴を入れて「千歳飴」「長寿飴」と書いて売り出したことがはじまりなのだそうです。
飴自体は平安時代からあったようですが、飴の中では「千歳飴」が最も古い歴史なんだそうですよ。
調べてみて
いつの時代も、親が子供の健康と成長を願う気持ちは変わりませんね。
私も親になってつくづく思います。
形はどうであれ、子供は元気が一番です!!
笑顔が沢山の七五三になりますように・・・。
最後まで読んで頂き誠にありがとうございました。